【実体験】私が脱柵してから退校するまでの40日間 | 激動の時代を生きる

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こんにちは。最近アナリティクスを見ているとソローク学生のプロフィールページの閲覧数が多く、私自身のことについて興味を持って下さる方がいて嬉しく思います。今回は私が防衛大学校を脱柵してから退校するまでの40日間について少しお話したいと思います。今回話す内容は皆さんが今後防大生として生活するにあたりいくつか有益な情報を含むと思います。何分激動の時間でしたので誤った記憶で話している可能性があります。また関係者の皆様はこんなことを記事に書くなと思われるかと思いますが、小さなサイトの一ページです。どうかご容赦を。

脱柵

今までのページを読んできて気づいた方もいらっしゃると思いますが、私は脱柵を経験しています。脱柵について少し説明すると脱柵とは防衛大学校から逃げ出すことを指し、脱柵した隊員は所在不明隊員となり後に所在不明と不正外出の処罰をもらいます。この処罰が今後の自衛官生活にどのような影響を与えるかは分かりませんが、ないに越したことはありません。私は5月22日(月)の朝に脱柵をし家に逃げ帰りました。

年次休暇を用いて数日間家に待機

その後家に戻ったあと指導教官と脱柵をしてしまい申し訳ないという旨の連絡を取り、家で今後の進退を考える時間をいただけるという話をしました。その後いろいろと考え家族と相談し防衛大学校を辞める決断をしました。しかし防大生は特別職国家公務員なのでそこですぐ退職とはいかず次の退職可能日(月に一回か二回ほど防大生が辞めることのできる日が決められている)まで待つ必要がありました。ですが退職可能日まで家で待つことは出来ません。なぜならば私が家にいる時間は年次休暇という防大生に与えられている休暇を消費しているためです。年次休暇は一年間に20日ほどしか与えられておらず。私が退職できる退職可能日まで何十日もあるため年次休暇が足りず防衛大学校に戻ることになりました。

学生寮に耐えられず病気休暇をもらう

一度学生寮に戻り生活をすることになりましたが、教官の手配で服務室(服務違反をした人が入る部屋でどちらかというと感染症の隔離等で使われがち)で生活させていただけることになりました。しかし防衛大学校に戻ると同期がドタバタして、上級生が指導し、スピーカーから通達の声が聞こえてきます。そうすると私は耐えられず指導教官の許可をいただいて医務室・横須賀自衛隊病院に向かい適応障害の診断を受け療養のため病気休暇をいただきました。

家で療養しつつ指導教官と面談

再び家に戻った私はひたすら虚無な時間を過ごしつつ、脱柵に関する聴取や別の事件にもかかわっていたのでその聴取を電話や防衛大学校の大隊指導官がいる部屋や服務室で行いました。人生で初めて二等空佐の方と話してとても緊張した覚えがあります。またこの間に私の服務違反に関する通達を受け取ったりしています。私の脱柵時の費用請求や処分の話については下のページで話しています。

晴れて退職

家で療養をしながら生活をし6月30日(金)に晴れて退職しました。その日は防衛大学校に特に行くこともなく普通に過ごしていました。変わったことといえば情報保全のために41中隊一学年のSNSグループからキックされたことくらいですね。物理的にはそのくらいです。一方で自分で言うのもなんですが精神的にはかなり来ます。多くの人を守りたいという意思で頑張ってきたもののそれをあきらめなくてはならないというのは相当です。防大にいるのもつらいですが辞めるのもつらいです。

まとめ

退職した後は一般市民となりこのように防衛大学校の情報を提供するサイトを運営しています。防衛大学校に入校される皆さんにはこのようになって欲しくありません。そのため出来るだけ多くの情報をこのサイトやほかの情報源からしっかりと吸収して防衛大学校に挑んでいただきたいです。質問・要望等あればこちらからお願いいたします。ではまた別の記事で

事後の行動にかかれ 分かれ

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